今年は色々な事がありましたと誰もが思う年でした。
2月の青梅マラソンの前日に痛めた足底筋は、結局いまだ治らずです。
2月の末には東京マラソン、夫婦で難関突破の当選で走ることができました。
東京マラソンを走った仲間と日本橋で飲んだのが、3月10日。実家の気仙沼に帰っていた走友と一緒に飲みました。
そのお酒を飲みすぎ、二日酔いで会社を休んだのが、11日。
2時48分。
たまたま女房も休みで、突然の激しい揺れ。
女房は食器戸棚とリビングボードを押さえ、わたしは天井まである自作の本棚を押さえてしました。
余震の合間を縫って、余っていた材木を使い、釘を打ちました。
激しい余震にこの世の終わりかと思いました。
そしてテレビをつけると、信じられない光景が映っていました。
会社への連絡はつかない。
お袋の携帯電話に繋がったが、横浜まで美容院に来ているとのこと、余震が納まるまでここにいると言っていた。
次にかけたら、携帯電話のバッテリーが残り少ないと言った。
京浜急行もJRも止まっているので、タクシーに並ぶと言っていた。
暫くして、また話すと、タクシーの列が凄くて前に進まないと言う。
埼玉にいて何もできない。
何とももどかしい時間が過ぎていく。
すると横浜市内に住んでいるお袋の弟夫婦とその息子がピックアップするために駅まで行ってくれた。
本当に有難かった。
結局、ピックアップしお袋の弟夫婦の家に着いたのは翌日の未明になっていた。
さぞかし寒かっただろうと思うと涙が出てきた。
でも、無事だったという安堵の涙でもあった。
長女は職場に泊り、長男と次女は家に帰れた。
しかし、余震は続き、津波の映像を見て空しさのみが心をよぎった。
この大震災から、自分に何ができるのかを考えた。
被災地に行くのは単に足手まといだけだと思った。
数日すると、復興という言葉があちらこちらで聞こえてきた。
三陸のカキは美味しいという。
何年先になるか分からないが、復興牡蠣を注文した。
学生以来の献血をした。
中止になったマラソン大会の参加料はすべて寄付した。
今思うとたったこれしかしていない。
なさけない。
社員のお母さんが石巻で亡くなった。
社員の職場は熊本で、震災の後、息子は、飛行機、JR、バスを使って、石巻に入った。
お母さんの安否を気遣い、Twitterで何度もつぶやいた。
なしのつぶてだった。
そして、津波にあった実家の二階で、息子は横たわるお母さんを見つけたという。
そのお母さんの葬儀に参列したのは10月になってからだった。
石巻はまだまだ瓦礫の山だった。
復興というお題目は何度も聞いた。
ただ、現地に行くと、中央の情報とはあまりにもかい離していた。
今でも思う、本当に日本は復興できるのか?
この日本は、この地球は、未来の子供たちからの借りものなんだ。
大事に大事にしなければならない。
今、自分に何ができるのか、兎年が過ぎ、辰年がきても自問自答していかなければならない。